影像(すがた)のかりゅうど/ルナールとの出逢い
仏文学を始めとして、およそ文学とは縁遠い私だが、私の半生を反芻しながら、雑然と買い求めてきた本棚の本の整理でもしようか、などと思ってみたので、久しぶりにルナールの『博物誌』を手に取ることとなった。
淀川長治は、イタリア映画は「家族」を描き、「恋愛」をテーマとしたらフランス映画の右に出るものはない、と語ったが、ルナールの『博物誌』は、小さき命たちへの愛の物語なのかもしれない。
朝早く飛び起きて、頭はすがすがしく、気持ちは澄み、からだも夏の衣装のように軽やかなときにだけ、彼は出かける。べつに食いものなどは持って行かない。みちみち、新鮮な空気を飲み、健康なかおりを鼻いっぱいに吸い込む。えものも家へ置いて行く。彼はただしっかり目をあけていさえすればいいのだ。その目が網のかわりになり、そいつにいろいろなえものの影像(すがた)がひとりでにひっかかってくる。……(後略) 岸田国史 訳
影像(イマージュ)を追い、自然観察の中にエスプリの効いた表現で人生を描く彼、ジュール・ルナールの哲学に、私は心惹かれる一人であることを確かめて、私は、彼の『博物誌』を本棚に戻した。
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